コピペばっかで見づらい・・・・

「皇族は黙ってろ」で有名な朝日新聞が何故か「昭和天皇の重い言葉」と主張
政治利用するんじゃない売国奴
昭和天皇富田メモ 分祀へ政治利用の恐れ
政界のコメントが載ってます。別名不敬者チェッカー。
日経新聞 昭和天皇A級戦犯合祀に不快感 まとめサイト
手帳の写真つき。

日記

素直シュールスレが2連続で1000まで行った。
半分ぬっぽんひゃに支配されたようなもんだけど。諸刃の剣だったなぁ。


今日見た分の2ちゃんねるのコピペ。
多くの日本メディアに吐き気を催す邪悪を感じる。今に始まったことじゃないけど。
ちなみにここで天皇陛下についての説明と昭和天皇の逸話がかいてある。


725 名無しさん@6周年 sage New! 2006/07/20(木) 21:58:49 id:lRY8LERn0
日経新聞本社では今パニックらしい。

どうやら1988年4月28日に富田宮内庁長官
昭和天皇に会っていない模様。

前のレスで「私」=徳川侍従長説があったけど
徳川侍従長とは打ち合わせの記録があるとか。


917 名無しさん@6周年 New! 2006/07/20(木) 22:08:44 ID:3j8r6XHW0
純粋に技術的な面から言わせていただくと左側は所謂「ブルーブラック」インキが
経年劣化でブルーからブラックに変色した状態。右側は書いて日が浅いのでブルー
のままでまだ何年かしないとブラックに変色出来ない。

結論→   左頁と右頁の時間は数十年の開きがある!

http://ca.c.yimg.jp/news/20060720133420/img.news.yahoo.co.jp/images/20060720/jijp/20060720-04602612-jijp-pol-view-001.jpg



>956 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/21(金) 06:47:01 id:Li0qGo5a0
>まとめ
>1 このメモは、「関連質問」、「ですがが多い」などの注記により、会見の内容をメモったものであることが明らか。
>2 当然、「回答者」「質問者」がいるわけだが、富田がメモっていたということは富田も同席したことになる。すなわち最低3名が出席した。
>3 この段階で「回答者」が昭和天皇であることはあり得ない。1988年に昭和天皇が会見でこのような内容の爆弾発言をした事実はないからだ。
>4 徳川侍従長の会見記事の内容が、このメモ内容と一致することから「回答者」は徳川侍従長であることが明らかである。

参考
ttp://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html



【捏造確定の予感】

> 写真赤線部にご注目ください
> 各メディアはなぜ、これを天皇の発言といいきるのでしょうか?
>
> http://www.vipper.org/vip295965.jpg
> 藤尾正行 の発言では?

(上記のURLだと見れなくなってるので下記で)
http://dentotsu.jp.land.to/img/chikushi_20060720_4.jpg 

>
> トリミングしてますが何か? by 報道ステーション
> http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153401234504.jpg
>
> どーみてもトリミング詐欺です。
> ありがとうございました

写真、製版、デザイン用語>トリミング
強調したい部分を残し、他をカットする事。


131 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :2006/07/21(金) 08:10:45 ID:5AL5mcAl

靖国神社には戦犯が祀られていると言う人がいます。マスコミしかり、サヨクしかり。
では、彼らのうち、戦争犯罪とは何か?と問われて、正しく説明できる人が何人いるでしょうか。
さらに「A級戦犯」「B級戦犯」「C級戦犯」の違いは?と問われたら、たぶんお手上げではないでしょうか。
A〜C級戦犯を、罪の等級だと誤解している人は多いと思います。

A級戦犯とは「侵略戦争を計画、謀議、遂行した平和に対する罪」
B級戦犯とは「戦争法規及び慣習の違反」
C級戦犯とは「俘虜の虐待を含む人道に対する罪」

太平洋戦争に限定するなら、連合国側にもB、C級戦犯はゴマンといるはずなのに、全く不問に付されていますね。

ちなみに、東京裁判で戦犯に問われて処刑された人は、米国による占領政策が解除されたあと、全員が名誉を回復されました。
したがって現在、靖国神社に戦犯は祀られていないのです。

昭和20年8月15日の時点において「戦争を始めたこと」を違法とする法律は、日本の国内法はもちろん戦時国際法にも存在していませんでした。
連合国は日本の戦争指導者を裁くために、あとから作った法律すなわち事後法によって軍事法廷を開きました。

ちなみに、事を為した当時に違法でなければ、後から作った法律で違法と規定されても、遡って裁かれることはないというのが法律の常識です。

さて、日本と連合国との間の戦争は、昭和20年8月15日に戦闘状態が終わりました。
しかし両者の関係は昭和27年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効までは戦争状態にあり、日本は連合国の占領下にあったわけです。
つまりサンフランシスコ講和条約により正式に戦争状態が終結し、日本は占領を解除されたわけです。

この間、国際法を無視した裁判で一方的に処刑された人たちは、いわゆる刑死ではなく本来は戦死扱いとなるわけです。



サンフランシスコ講和条約の発効後国会では、戦犯として処刑された人たちの“汚名”を晴らそうという動きが活発化します。
その中でもとりわけ熱心に「遺族は国家の補償も受けられず、その英霊は靖国神社の中にも入れない」と訴えたのは、
社会党”の堤ツルヨ衆議院議員だったといいます。

こうした動きの中で昭和28年8月に改正された「遺族援護法」で、旧敵国の軍事裁判で有罪判決を受けた人は日本の国内法では
“罪人とみなさない”との判断基準が明確にされ、遺族に年金と弔慰金が支給されることも決定されました。

戦犯刑死、あるいは獄死という阜サは罪人のイメージが強いため、公文書では「法務死」と記され、また靖国神社では「殉難死」と記されています。
すなわち「連合国が戦犯として裁いた人たちは罪人ではない」というのが国家の意思たる法律上の正答であり、これは当時の日本人の総意だったのです。